Ads by Google
新しい記事を書く事で広告が消せます。
日米消費行動の差異
上記の出来高インセンティブというのがどういうものかというと、私の場合は利益分配制度みたいなもので、自分の部署が会社に対して提供した利益がある閾値を超えると、その分が自分のボーナスになるというもので、四半期に一回、つまり3ヶ月に一回もらえる。
一般的に日本の会社の場合、ボーナスは会社業績や自分の業績を反映するとはいえ、それなりに予測可能な範囲内の場合が多く、大抵の人は収入の一部として見込んでいると思うのだが、私の場合、上記のような計算式のため、大きく増減した。多いときは数百万円で少ないときは数万円。「一体何が起きたんだ!!」というような金額が突然振り込まれるときもあれば、「今月は立替交通費がちょっと多いなあ」という程度のボーナスしか出ないときもある。これが3ヶ月に一回の頻度で起こる。
こうなるとどういう気分になるかだが、ボーナスを見込まなくなる。無くて当然、来たらラッキー。そういう気分になる。そしてこの方が消費マインドが劇的に上がるのだ。
これは宝くじに当たった人の消費と似ていると思う(注:私は当たったことはない)。宝くじに当たった金は残らないと言われているが、これはあぶく銭だからだ。「どうせなかったはずの金」であり、「ラッキーな金」であり、「当初は見込んでいなかった金」であるため、財布の紐が緩むのだ。これは金持ちでも貧乏でも変わらないらしい。貧乏だと、その分の金を貯めようと思いそうなものだが、そうではないらしく、それは上記の理由らしい。
実際に、私も満額のボーナスをもらったときなどは、強烈に財布の紐が緩み、50万円くらいの時計を衝動買いしてしまったり、帰りにちょっと立ち寄ったテーラーでスーツをオーダーしてしまったりする。BMのディーラーに立ち寄り、危うく車を衝動買いしそうになったこともある(注:今の車はBMだが衝動買いではない)。なぜか住宅ローン返済にまわそうとか思わない。あぶく銭だからね、使っちゃえ使っちゃえ。
これが、一定ペースで予想通りの金額が淡々と振り込まれると、その量の多寡にかかわらず、財布の紐が緩まない。コツコツ堅実な人生が一番だね、うんうん。
バブル崩壊以降、内需を如何に拡大するかが、日本のテーマであり続けているわけだが、これが中々うまく行かない。一方でアメリカは消費大国。その背後には上記のようなボーナス体系の違いがあるのではないかと思う。もちろん、国民性の違いとかもあるだろうが、それだけではなかろう。だって、アメリカには色々な住人がいるんだからさ。WASPだけじゃないからね、あの国の住人は。
ご存知のとおり、現在は米国金融危機に端を発した世界同時不況とかいうやつの真っ只中にあるわけだが、本家のアメリカよりも日本の方が景気が悪い(少なくとも鉱工業生産指数の悪化率は日本の方が高い)理由の一つがここにあるのではないだろうか。米国でボーナスがゼロになっても、あぶく銭が無くなっただけだから、「高級ブランド品はしばらく我慢するかな」という程度であるのに対して、日本でボーナスが減ると、当てにしていた収入が減ったことになるため、「こりゃ大変だ、生活防衛しなくてはなるまい」ということになる。贅沢品だけでなく、生活必需品までケチり始める。そして日本の景気が、震源地のアメリカよりもく悪くなる。リーマンショック当初は、「日本の痛手は欧米と比較して浅い」とか能天気な報道がされていたのが、年末には「米国を越える経済危機」とかいう話になる。これは経済学じゃないね。心理学だね。論理じゃなくて感情。そんなもんさ、人間なんてさ。
まあ、借金に借金の上塗りをして消費する国が良いとも思わないけどさ。
どうでもいいが、米国の金融関係者の懲りなさ加減といったらすごいものがあるな。懲りている気配を感じない(注:サンプリングが私の知り合いに限定されているので、間違っているかもしれません)。今年の後半くらいには再び巨額のボーナス(千万円単位ね)がもらえると思っている。環境バブルを狙っているみたいね。そうじゃない人は、もう金は要らないから、余生はボランティア活動で過ごすとかさ。どっちにしてもあっけらかんとしているよ。日本で報道されているような暗さは全く無いのね。
それくらいタフな精神構造じゃないと生きていけない世界なのかもね。
仕事と自転車の共通点
その後自転車競技をやっていないことも関係しているのだろうが、今まで気付かなかった共通点を新たに発見してしまった。
自転車をやっている人なら、自転車競技のマゾヒステリックなエクスタシーがわかるだろう。坂を競い合いながら上がっているとき、身体を襲うあの苦痛。筋肉は切れそうで、横隔膜はひきつり、心肺は一杯一杯だ。やがて手足がしびれはじめる。そんな苦痛に耐えている自分に感じる自虐的な快感。やがて、ある臨界点を超えたときに訪れるあのエクスタシー。ああ、気持ちいい。
最近、私は仕事で強烈に追い込んでいる。スケジュールは一時間きざみで、わずかな合間を縫ってメールを処理しつつ、タスクを片付けていく。当然、うまくいかないものもあるし、問題も勃発する。でも、スケジュールは次々と襲ってくる。
こんなときには、強烈なストレスが身体を襲う。胸や胃を締め付けるような苦痛が来る。その一方で追い詰められるほどに、頭のどこかが研ぎ澄まされていくのを感じる。強烈な身体的苦痛を受けながら、頭がフル回転していく。やがて禅の境地にも似た、不思議な感覚に包まれるときに感じる快感、これは自転車で追い込んでいくときに感じるあの快感と同じなのだ。
最近、仕事でこの自虐的な快感を追い求めている自分に気付くことが多いのだが、これは自転車競技をやめたことと無関係ではないだろう。恐らく、自転車で苦痛に耐えるマゾヒスティックな快感を感じることがなくなったため、自然と別の手段であの快感を追い求めているのだろう。いずれにしても、この快感は癖になるぜ。
実は、もうひとつ仕事と自転車の共通点を発見してしまった。
自転車乗りで超回復を知らない人はいないだろう。強烈な苦痛を体に与えた後、その体をゆっくりと休めているときに感じるあの快感。ああ、体が癒されていく。これでもっと強くなれるかと思うと、うれしい、あの喜び。自転車は一粒で二度おいしい。体を壊しても気持ちいいし、癒しても気持ちいい。
仕事で日々追い込むと、さすがに疲れる。金曜の夜などはふらふらだ。電車の中で気絶しそうになる。そして、そんなときに、あの快感が私を襲う。ああ、これで家に帰ってゆっくり寝たら超回復して、もっと強くなれはずだ。来週はもっと強烈に仕事が出来そうな気がする。そんなことを感じながら家路に着くときの快感。帰宅して風呂に入っているときに感じる快感。寝床で落ちていくときの快感。成長ホルモンの分泌を感じるあの快感。自転車と一緒だ。
仕事も自転車も両方とも麻薬ですよ。くれぐれも両方やったりしないようにしましょう。さすがに体に悪すぎますから。
ゴルフ上達せず
ゴルフというやつはやってみると実に面白い。そして実に自転車に似ている。暗くて、じめじめしていて、女々しくて、恨み節で、孤独で、しつこくて、陰湿だ。単純であることも似ている。方やペダルを回すだけだし、方やボールを打つだけ、しかも止まっているボールだ。何でこんな単純なことがうまくいかないんだ、ちきしょー、うちまくってやる、ぱちんぱちんぱちん、ああだめだ、うまくいかない、天を仰ぎ地面にひれ伏す、ああ、似てる、自転車とそっくりだ。連光寺が打ちっぱなしに変わっただけ。ちきしょー、とつぶやきながらペダルを踏んでいたのが、クラブを振るのに変わっただけ。
しかしだ、この二つ、全く異なる部分もある。それはだ。自転車は付き合いを狭め、ゴルフは付き合いを広げる。
自転車なんていうものをやっていると、夜の付き合いなんてものに付き合っていることは不可能だ。だって夜練か朝練をするんだからさ。仕事が楽な人や睡眠時間が少なくても生きて行ける人は別として、そうでなかったら、夜の付き合いなんて不可能だ。実際、私はこの4年くらいは、接待を別にすれば、夜の席に出たのなんて年に4回くらいだと思う。すると付き合いの悪いやつということになって、誘われなくなり、ますます付き合いが狭くなる。
一方、ゴルフを始めた途端、やたらと付き合いが広がり始めた。夜の接待だとちょっと重すぎるような大物ともゴルフならOKだし、5年くらい会ってなかった友人ともゴルフを通じて再会した。モリカワがゴルフを始めたらしい、という話が広まったのか、数年間会ってなかった友人から突然ゴルフの誘いがあったりする。
もともとゴルフを始めたのは仕事のためで、昨年の夏ごろ、俺がもう一つ上に行くには何が足りないのだろうか?と考えて、その結果始めたのがゴルフなのだ。その頃読んだ、ジャック・ウェルチとルイス・ガースナーの自伝の影響も大きいかな。アメリカでも仕事の大事な話はゴルフ場でしてるんだな。
しかし、始めてみると、純粋に面白くて、すっかりはまってしまった。この週末も打ちまくった。でも、うまくならないんだな、しくしく。
ああ、ゴルフと自転車の違いがもう一つあった。それは体への影響。自転車をまじめにやると体が破壊されてしまい、たとえば土曜の午前だけの練習でも、一日廃人になったりする。一方、ゴルフで廃人になるほど体を破壊することは非常に困難だ。もう疲れて打てない、というくらい打ちまくっても、その後の家庭生活に影響が出ることは無い。
というわけで、ゴルフ万歳なのだ。ゴルフ人口が多いのも納得お得ですな。
そんなことを考えると、多いとはいえゴルフ人口は減少傾向な一方、自転車は少ないとはいえ増加傾向。こりゃ由々しき事態だな。
運動不足解消とかいう軽い気持ちで自転車を始めようとしているあなた、よく考えたほうがいいですよ。あなたが始めようとしていることは人生を破壊する麻薬ですからね。
その分、ゴルフじゃ味わえない興奮が味わえますけどね。
喉元過ぎれば熱さ忘れる
私の病気は潰瘍性大腸炎といい難病指定されている。難病とは言え、前回も書いた通り致死性はなく、この病気で死んだ人はいない。この病気について簡単に説明しておこう。私は素人なので間違いがあるかもしれないので、そこらへんは適当によろしゅう。
潰瘍というのは何かというと、内臓の内側に出来る傷だ。要するに胃や腸の中に傷ができるのを、胃潰瘍とか十二指腸潰瘍とか言う。私のは大腸に潰瘍ができる。つまり、大腸に傷ができるということだ。自転車乗りなら、落車して大腿のあたりに擦過傷ができている状態を想像して欲しい。あれが大腸にできるのが私の病気。
落車して擦過傷ができれば赤チンを塗ったり、サランラップを巻いたりするわけだが、潰瘍性大腸炎においてもこれと同じで、赤チン相当の薬を口から、もしくはケツから入れたり、白血球や免疫に細工をする(細かいことは知らんがサランラップみたいなもの)。擦過傷と同様に潰瘍性大腸炎もこれで治る。結構毛だらけ猫灰だらけである。
赤チンもサランラップも擦過傷を「治す」わけではない。体が勝手に「治る」わけで、赤チンやサランラップは「治る」のを助けるだけだ。潰瘍性大腸炎の治療も同様で、「治る」のは私の体であり、治療はそれを助けるだけ。当たり前の話ですな。うんうん。
「ちょっと待て。擦過傷と同等の病気が何で難病指定なんだ?」。そう思ったあなた。あなたは正しい。極めて正しい。恐ろしく正しい。
そもそもだ。病気というものは潰瘍性大腸炎だろうが風邪だろうが擦過傷だろうが骨折だろうが何だろうがそういうもんだろ。いずれも「治す」ことなんてできない。「治る」のを助けるだけ。
では難病とそうでない病気の違いは何なのかというと、簡単に言うと(注:私は素人です。間違っている可能性があります)、その症状が発生するメカニズムが解明されているか否かだ。癌はメカニズムが解明されているが潰瘍性大腸炎はされていない。よって方や致死性があるにも関わらず難病ではなく、方や致死性は無いのに難病なわけだ(注:しつこいが間違っているかもしれません。私の解釈です)。
擦過傷の例で説明しよう。あなたがO-vest練から帰ってきたとする。玄関に腰をかけシューズを脱いでいる。膝に目をやると擦過傷ができている。腰骨の辺りにも痛みがある。「ああ雛鶴でコケタからなあ」という状況なら、それは難病ではない。一方、膝の擦過傷を見ながら、「はて、何でだろう?」という状況ならそれは難病だ。前者は理由がわかっている。落車したのがいけないのだ。よって避けることができる。自転車に乗らなければいい。後者は理由がわからない。よって避けることができない。根本的な対処ができない。こりゃ困った、難病指定しよう、そうだそうだそうしよう。
潰瘍は上記の通り理由もなく(というか理由がわからず)出来るわけだから、これは受け入れるしかない。この病気の患者は悲惨な状況の人とそうでない人がいるのだが、それを分けるのは、(1)発症頻度、(2)傷の深さ、(3)傷が治るスピードだ。特に(1)と(3)が重要だ。たまにしか発症せず、発症してもすぐに治ってしまうなら、どうってことはない。そして(3)は、その人自身の回復力の強さと、赤チンの効きやすさに分解される。回復力が強ければ、何もしなくてもいいし、赤チンが効くなら治療は容易なのだが、それがだめだと結構厄介なことになる。ステロイドやら免疫系を操作するやらという話になり、通院やら入院やらを伴うため、人生に対する影響が極めて高くなる。金がかかる上に仕事にも影響が出る。
幸いなことに私は赤チンが効く。赤チンを塗ったらスカッと治った。多分、体の回復力自体が高いわけではないと思う。上記の通りこの病気の発生メカニズムは不明であるものの、ストレスとの関連が強いと言われており、私の場合もそれだと思う。7月末からおかしくなってきたのだが、それは人生の勝負をかけた闘いを開始した時期と符合する。8月末にその闘いは勝利で終わったにも関わらず、病状は更に悪化していった。ストレスは消え去ったし、睡眠時間も確保したのに快方に向かうどころか、更に悪化した。病院に行く前の2日くらいは、一日の半分以上をトイレで過ごし何も食えなかった。何も食わないのにトイレに行きっぱなしということは、出るのは血だらけということになるわけで、その腹痛は今までの人生で味わったことに無い強烈なものだった。これが赤チンを塗るや否や回復に向かった。赤チンが無ければ治らなかったかもしれないし、そうでなくても回復が相当に遅れただろう。要するに赤チンに救われた。
後は、頻度がどうかという話なのだが、今のところ再燃していないのでよくわからないし、再燃してもどうってことはないはずだ。赤チンが効くから。さらにGood Newsは、この病気は2年くらい再燃しないと治ってしまうのだ。上記の通り、難病というのはよくわからない病気であるがゆえに、よくわからないが治ってしまうのだ。確たる根拠は無いが、私の場合は治ってしまうだろうと確信している。
というのが顛末で、何はともあれ良かったヨカッタ。皆様お騒がせしました。
最後に:
この病気になって良かったのは、「人生の優先順位」を明確に知ったことである。上記の通り、この病気の苦痛はそれなりで、しかも出血しまくっている大腸にカメラを入れる苦痛はかなりのものだった。その苦痛に耐えながら私が思ったのは、「仕事がしたい」だった。今までの仕事の仕方を後悔した。自転車などのために仕事を適当に切り上げたことを後悔した。もう一度仕事に戻れるなら全力を尽くすことを誓った。
前記の通り、8月に敢行した人生の大勝負に勝ち、大きな舞台へ挑戦する機会を得た。「折角のビッグチャンスなのにこの体じゃ無理だな、断るかな」と思っていた。外資のITという業界は楽ではないものの、自分で言うのもアレだが、私の能力をもってすれば惰性でも乗り切れるので、やっぱり元の鞘に戻るかな、と思っていた。
それが嘘のように回復した。地獄の淵から生還したような気持ちだ。神様仏様サイババ様、どうもありがとう。
今日も会社で仕事をした。会社には行かないが明日も明後日も仕事をするつもり。私は幸せだ。
お知らせ
この結果を聞いたときは、やっぱりという気持ちと、残念な気持ちと、ほっとした気持ちが入り混じった複雑な心境でした。
「やっぱり」と思ったのは、一年半前に内視鏡検査を受けたときに、異常なしとしながらも、その病気の可能性を否定できない、という診断だったことや、友人が数年前にこの病気になって自転車競技をあきらめたこともあり、私はこの病気に対する知識がそれなりにあったのですが、ここ数週間の状況がまさにその病気の症状だったからです。昨年来、レース前に多少負荷をかけただけで、血便が出るなどの症状に悩まされていたことからも、恐らくそういうことだろうと思っておりました。
「残念」というのは、上記の通り覚悟はしていたとはいえ、競技活動を出来なくなることに対して、寂しさがあるということです。とはいえ、やるだけやったという感覚もあり、意外とサバサバしております。願わくば一度木曽村を完走したかった。
「ほっとした」というのは、ここ数日の状況はかなり悪く、ひょっとするともっと悪い病気なのではないかと危惧していたからです。また、昨年来の情けない自転車競技の状況に関して、ひょっとすると俺がしょぼいだけではないのか、俺が弱っちいだけではないのか、俺が甘ちゃんなだけではないのか、と自分を責める気持ちがずっとあったのですが、これで私が悪いのではなく、病気だからしょうがなかったんだと、自分を納得させることができたということです。
この病気の良い所は生命の危機が無い所です。仕事を含めた一般生活に対しては全くといっていいほど支障もありません。悪いところは、難病指定されており、有効な治療法が無い所です。うまく抑えながら付き合って行くタイプの病気と言えます。とはいえ、急増している病気ですし、近い将来、治療法が発見される可能性は十分にあると思います。
また、この病気は運動を禁止されるようなものではありませんので、病状が回復したらサイクリングやジョギングは再開するつもりですし、あるいはアイアンマンレースのような、負荷を上げないタイプのレースであれば、復帰することもできるのではないかと思っております。
しばらくの間は、療養することになります。ひょっとすると短期間の入院をすることになるかもしれません。
いずれにしても、アスリート生活はしばらく休みます。日記の更新もしばらくしません。
では。
2008/09/2 (Tue) 戦いは終わった
勝負というやつは負けては行けない。勝ちっぱなしでなくてはいけないというわけではないが、3勝4敗以上の勝率が必要だ。出来れば4勝3敗以上の勝率が望ましい。連敗は絶対に避けなくてはならない。負け癖という奴はすぐに付くから。
勝つための秘訣なんてものはない。徹底的に戦略を練り、その戦略を一つ一つ実行していくだけ。実行の途中で戦略に変更を加えたくなっても、簡単に戦略を変えては行けない。戦略を変える必要性が明らかなときだけ、戦略を変える。それ以外は、自分の練った戦略に則り、愚直なまでに実行する。実行が大事。
私は戦略を立案するのも、戦略を実行するのも両方ともプロだ。よって、最高の戦略を立案することができるし、それを確実に実行することもできる。勝って当然なわけだ。
というのは嘘で、世の中に自分しかそういう人間がいなければいいのだが、残念ながら山ほどいるわけだ。よって競争が起きる。プロの世界なんだから当たり前の話だな。
今回の戦いは、予期せぬところから道が開けた。今回の戦いとは全く関係ないところで会った人が差し伸べた手が決め手になった。自分の戦略とは全く関係ないところから蜘蛛の糸が降りてきた。
これは、自分が完璧な準備をしていたから神が手を差し伸べたのか、はたまた神はサイコロ遊びをしただけなのかは良くわからないが、私には後者であるような気がする。散歩をしていたら棒に当たってしまい驚いている犬のような心境、というのが、今の自分の正直な気持ちだ。
今回の戦いに際して、私なりに完璧な準備をした。絶対に負けない準備をした。そして結果は勝利だった。だが、その勝利と私の準備とは全く関係がなかった。こういうことになるなら、全く準備する必要はなかった。あの日、あの時、あの場所に行ったことだけが決め手だったのだから。
今言える事はただ一つ。
人生は捨てたもんじゃない。
トレーニングなしの日
2008/09/1 (Mon) 体調悪化続く
トレーニング無しの日
2008/08/31 (Sun) 体調悪化続く
トレーニングなしの日
2008/08/30 (Sat) 体調悪化続く
トレーニングなしの日
2008/08/29 (Fri) 体調悪化続く
トレーニングなしの日
2008/08/28 (Thu) 体調悪化続く
トレーニングなしの日
2008/08/27 (Wed) 体調悪化続く
トレーニングなしの日
2008/08/26 (Tue) 体調悪化続く
トレーニング無しの日
2008/08/25 (Mon) 体調悪化続く
トレーニングなしの日
2008/08/24 (Sun) 体調悪化
トレーニングなしの日


